大和高田市議会議員 萬津力則

民話と伝承

第一章 さいかち娘 (曽大根)



 第一章 
 さいかち娘




高田のまちの中心から南ヘ寄った在所、曽大根の中を南北に流れる川があってな、その上の方の橋ぎわに、さいかちと言う古い木があって
この木というのは、葉の先に芽か茎のようなものが出て実がつくという珍しいもんなや。

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ところでこの(さいかち)の木の根っこに昔から年を経た(蛇)がすんでいるということで、えろうこわがられていたことやがな。
いつのころからか、木の根っこに(蛇)の好きな(にわとり)の卵を入れた(かご)を置き、そこへ手伝ってもらいたい田や畑の場所を書いた紙きれを入れておくと朝の早ようから、
どこからきたのか、かすりの野良着に(ねえさん)かぶりの若い娘が、たのんだ人の田や畑で仕事をしてくれるんや。
それがすむといつのまにやら姿を消しているということで、さいかちの木の根にすむ蛇の化身で、さいかち娘と呼んでありがたがり、えらい人気やった。

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ただ、この娘はいつも手ぬぐいでかくして、人にはめったに顔を見せんもん
やから、若い男衆たちは、何とか(さいかち)娘の顔をふり向かせようと、
唄ったり踊ったり苦心したんやがどうにもならず、考えついたのが白い石の(にせ)の卵をかごの中へ入れることやった。
(さいかち)娘の蛇は、それを知らずにのみこんだから、さあたまらない、
苦しさにもがきもがいて、とうとうふり向いたその顔は、(かすり)の着物に紅いたすきのやさしいうしろ姿とはことかわり、
二つの目はらんらんもえ口は裂けて火のような舌を吐きながら、若い男衆たちを追いかけてきたやないか。

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蛇や、蛇や、えらい蛇や、若い男衆たちは日ごろの元気はどこへやら、だれもかれも命からがら家ヘ逃げ帰ったんやが、
とくに悪さをした一人は、最後まで追いまわされてやっと家までもどり、戸をしめ、ふとんを頭からすっぽりかぶったまではよかったが、
一晩中、えらい熱にうなされて、あくる朝とうとうあの世ヘ行ってしもうたそうな。
かわいそうに。
今も、(さいかち)の木には蛇がすむからと、ここを通るときには手を合わせる人が多いことやで。

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※本文と絵は大和高田の民話絵本より。
 高田の民話と伝承の郷、11ヶ所を訪ね歩いてきました。

1話づつご紹介いたします。

第二章 金鶏塚のはなし(根成柿)

 

第二章 
金鶏塚のはなし



 
高田のまちの、いちばん南のはしの在所、根成柿で、菅原道真をまつる天満神社の森の中にある、二つの石塔を知っているかいな。

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この石塔は昔から、柿本人麻呂の歌塚とも、お墓とも言われるもんでな。
正月元旦の夜明け、黄金の鶏が飛んできて、ここにとまり、東天紅と時を告げるという、めでたい言い伝えのある金鶏塚とは、そうよ、これなんよ。

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昔、明日香の朝廷につかえた万葉歌人、柿本人麻呂は、最後は遠く石見の国(今の島根県)の役人として送られ、そこで命を終えたのは、ほんに残念なことやった。
残された妻の与佐美は、なげき悲しみはしたものの、気をとり直し、歌の名人だった人麻呂のてがらをしのんで、この二つの石塔(塚)を建てて、しみじみ冥福を祈ったわけ。

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ところが、阿田蟇麻呂と言う、人麻呂のライバルだった心のよくない男が、天子様の命令だというて、この二つの塚のとりこわしをせまってきたんや。
ひどいことや。
与佐美は、次の正月の朝までの期限をつけてこれを返したあと、毎日、人麻呂の霊に向こうて祈りつづけたんよ、そりゃあ、一生けんめいにな。
いよいよ正月の夜明けがきて、蟇麻呂たちが二つの石塔のとりこわしにかかろうとしたその時やった、そこら一面まばゆい光でいっぱいになったかと思うと、
どこからか、黄金をまとうた鶏が二羽飛んできて、それぞれの塚にとまり、力いっぱい声いっぱい、勢いよく、東天紅と時をつげたんや。

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その神々しいこと、まばゆいこと、悪人たちは恐れをなして、ほうほうのていで逃げ去ったということや。
どうや、今度の正月の夜明け、この石塔をたずねて、金の鶏に会いに行く人はおらんかの。

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※ 現在、天満神社の社殿は新築され、この金鶏塚のまわりも整備されています。
      天満神社のすぐ南の安楽寺跡には、越智家栄が建立した「法華経千部読踊記念碑」があります。

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※本文と絵は大和高田の民話絵本より。
 高田の民話と伝承の郷、11ヶ所を訪ね歩いてきました。

1話づつご紹介いたします。

第三章 水がわいた( 有井 )

 

 第三章 
 水がわいた



そうそう、それは千二百年ほども前のことや。
真夏の焼けるようなお日様がじりじりとこげつくとうに暑い昼下がり、磐園の里に1人のみすぼらしい、お坊様が杖をひきながらやってきなさった。

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「のどが、かわききってどうにもならんでのう、水を一杯めぐんでくだされや」こういうてお坊様は、とある家の門口に立たれたんや。
すると、そこの若い嫁ごが出てきて
「そりゃまあお気の毒に、でもお坊様、ここは水なし村と呼ばれるほどに水のない所、水は命とおんなじに大事やということで、
水がめに蓋がしていて錠がかかり、鍵は主のおやじ様が持ってなさるので、どうにもなりませぬ。
どうぞかんにんしてたもれ」と、うったえるので旅のお坊様は仕方なくまた、とぼとぼと歩きだされたのよ。
「お坊様、旅のお坊様、お待ちなされませ~」
と、いう声にふり返ると、さっきの家の若い嫁ごが、追うてきて
「お坊様、水はあげられませぬが、お背戸のまたたびの木の実をさし上げまする。これでのどをいやしてくださりませ」
と、さし出したその実を、お坊様はおしいただき、口に入れられたところのどのかわきはなおり、元気をとりもどされたんや。
「ありがたや、ありがたや、これで命がもちまする。
ここは水ない水なし村、助けていただいたお礼に、ようく水のわく井戸を堀りあてて進ぜよう、こちらヘきなされ」

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こういうと、お坊様は、若い嫁ごをすぐそばの辻の横へ呼び、杖の先で足元の土をトントンと何回かたたいて穴をあけなさると、
あらあら不思議きれいな水がこんこんと湧き出したやないか。

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これが今も残る名高い井戸で、村人はやかたを作り大切に伝えているもんで、この村を、井戸が有るので有井、有りがたい井戸ができたので有井、というようになったとか。
あのお坊様は、どうやら、高野の山の弘法大師さまだったそうやで。

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※本文と絵は大和高田の民話絵本より。
 高田の民話と伝承の郷、11ヶ所を訪ね歩いてきました。

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第四章 捨篠池の一つ目蛙(奥田)


 
第四章
 捨篠池の一つ目蛙

 

 


刀良売(とらめ)さまは、うっとりなさっていなさると、池の中から一本の蓮の茎がするするとのびて出たかと思うと、美しい蓮の花がひらき、

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その上に金色の蛙(カエル)が一匹、まばゆいばかりの姿でとまってるやないか。

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そうやなぁ、あれは今から千ニ、三百年も前のことやった。
奥田村の東の池のほとりに庵が一つあってな、そこに刀良売(とらめ)様という名の女の人が住んでいなさったんや。
刀良売様はな、葛城山などの山々で修行したあと、大峰山を開いて日本の国に、修験宗というきびしい仏法をうちたてなさった、役の行者(えんのぎょうじゃ)のお母様なんや。

さて、その刀良売(とらめ)さまが、ある日の朝のこと、この池のほとりを散歩してなさると、どこからか、ここちよい音楽が流れてき、
そのあたりの露も五色に光り、あたりは、ありがたい極楽のような様子になってきたやないか。刀良売(とらめ)さまは心をうばわれて、
なんの気なしに池の岸にはえている篠(シノ)を一本ぬいて、ひょいとその蛙(カエル)の方へ投げたんや。

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そしたらどうや、その篠(シノ)がなんと、まともに蛙(カエル)の片目に突きささってしもうたがな。

しばらく刻(トキ)がたってからや、あたりがもとの明るさにもどったとしなされ、池の中から浮き上がってきた蛙(カエル)は、なんとまあ、泥色のみにくい一つ目蛙ばっかりということや。

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それからというもんは、池の名も捨篠池(ステシノイケ)と呼ぶようになったし、ここの池の蛙(カエル)は、どれもみんな、一つ目蛙ばっかりということや。
それからの刀良売(とらめ)さまは、このことを気に病み、やがて亡くなられたそうやが、その子の役(えん)の行者は、母さまの供養のため堂を建てるなど、いろいろつくしなさったが、
毎年七月七日の、この池の「蓮とり行事」も、吉野蔵王堂の「蛙飛び行事」もみんな、さっきからの話につながるなあ。


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毎年、7月7日午前10時から行事が行なわれております。




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奥田の蓮取り行事


※本文と絵は大和高田の民話絵本より。
※写真の一部は、市役所資料より。
 高田の民話と伝承の郷、11ヶ所を訪ね歩いてきました。

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第五章 故郷恋しと泣いたつり鐘(本郷)

 


第五章 
故郷恋しと泣いたつり鐘




こんどは、つり鐘にも心があるというお話を聞いてもらいまひょ。
高田のまちのほぼまん中に、今は埋め立てで小そうなったけど、馬冷池というのがあって、その池のすぐ東がわに、大日堂、不動院というお寺があるのを知ってかな。

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さて、昔、ここの檀家のお百姓衆がある年の秋のこと、米が不作で年貢がおさめられず、毎晩寄って相談したもののどうにもよい思案がうかばず、
おもいあまって、この寺の和尚さんにそのことをうちあけたところ、じっと考えなさっていた和尚さんは、
「もうこうなれば、この寺のつり鐘を売りなされ、ここのつり鐘は、みなさんの御先祖が寄進なされたもの、子孫のみなさんの難儀が助かるんら、きっとご納得くださるやろ」


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こうして、ここのつり鐘が売られていったさきは、郡山のまちの高田口のお寺やった。
ところが、ここへついてからの、このつり鐘は、中和の高田が恋しいと、毎晩、うわん・うわんと泣いて故郷を見たいとせがんだそうな。
困った、ここの住職さんは、このつり鐘を世話してくれた道具屋に、「なんとかならんかの」と相談なされたのや、
それならと、この道具屋は方々をあたり、こんどは山城の国の高田というところの、お寺に買われていってしもうたのよ。           

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でもな、ここへ移っても、このつり鐘は、
「大和の高田が見えん、もっと高いところがええ、ふるさと恋しい」と、泣くもんで、ここのお寺も困りはて、
檀家の衆に集まってもろうて、知恵を出し合うて考えついたのが、このつり鐘にきざんである、大和の国高田大日堂不動院という文字をけずり取ってしまう案で、
さっそく、それの職人にたのんで、文字をなくしてもろうたところ、
不思議や、その日から、つり鐘は泣くことも、わめくこともせんで、おとなしいつり鐘になり、
その寺と、その土地のお役に立ったということや、よかったな。
それにしても、カネでできた、つり鐘にも、心や性根があるとは、人間のみんなも、ようく、心得なきゃいかんことや。

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高田証菩提寺不動院は、本市唯一の重要文化財です。
となりには文化会館・さざんかホールが建っております。



※本文と絵は大和高田の民話絵本より。
※写真の一部は、市役所資料より。
 高田の民話と伝承の郷、11ヶ所を訪ね歩いてきました。

1話づつご紹介いたします。

第六章 川流れ地蔵さん (出)

 

第六章 
 川流れ地蔵さん
 

 


こんな話を聞いたことがありますかいの。
地蔵さんは、村の辻、町のかど、道ばたなど、あち、こちに
立ってなさるが、昔はな、ここらあたりの地蔵さんは
みんな、西の葛城山のひとところにかたまって
いなさったそうな。


頭痛なおしの地蔵さん、歯痛おさえの地蔵さん、
クサやデンボちらしの地蔵さん、
不事、災難、厄よけ封じの地蔵さん、など、など、
葛城山の中腹の山あいで、役に立つ出番をまっていなさった
というわけや。

いちばんの心配は、この石でできた重いからだを
どのようにして大和国中まではこんでいくかということで
地蔵さん達で相談なされて、おきめなされた案は
夏から秋の出水の時に、その流れの力を借りて
里ヘ出て行く方法やった。

さて、ある夏の終わり、秋も初めの台風でどえらい雨が降り
谷川がせきを切ったように流れ出したので
地蔵さん達は待ってましたとばかり
いまいけ、それいけ、やれいけと水にまかせて
大和国中にむかってくり出されたんやがな。



歯痛をたすける地蔵さんは、葛城川に身をまかせて
ごろん、ごろんと流れながら
どこでとまろうかと、うかがってなさると
歯痛で、わいわい泣いて母親を困らせとる子供の姿が
目についたんで、「ようし、ここだよ」と、そこの岸ヘ
とまらっしゃった。



ここで村の衆に拾われなさったのが、出村の西のはずれの
つつみの道ばた、橋のたもとの地蔵尊やそうな。



それから、おんなじあの時
住吉川ヘ流されなさった地蔵さんは
吉井の村の人が拾いあげて、子供の病気封じの
地蔵尊としてまつったことなんやで。



これが、つまり、川流れ地蔵さんのお話ですわな。




※本文と絵は大和高田の民話絵本より。
 高田の民話と伝承の郷、11ヶ所を訪ね歩いてきました。

1話づつご紹介いたします。

第七章 義経の七つ石 (大中)



第七章
義経の七つ石

 


おごる平家をうち滅ぼして

源氏時代をつくるのに、一番手柄のあった源義経が気の毒に
も、兄の頼朝のうたがいを追われる身となり
日本国中、住むところの無うなったのはなんとも悲しい
ことやないか。
はじめ、義経は瀬戸の海から船で西国へ逃れようとしたのが
大しけで失敗、京都へもどって、そこから陸の道をたどって
果てしない、身をかくす旅に出たもんや。



京都から奈良へ出て、山の辺の道を南へ歩いてから
長谷街道を西へ、高田の里ヘ入り
大中の村の小さなお宮の前ヘきて、義経主従の一行は一息
入れたと思いなされ。
でもまあなぜに、義経一行が、この高田へ足を向けたかと
いうことは、義経の大事な人、静御前の母、磯野禅尼の住む
村がすぐこの先にあったからなんや。



さて、この大中の社の前で休んだ一行の人数は
だいたい十人ぐらいだったということや。
義経、静、武蔵坊弁慶、常陸坊海尊、駿河の次郎
伊勢の三郎、亀井六郎、片岡経春、佐藤忠信と荷物持ちの
喜三太がそれぞれの名前と思いなされ。



さしず役の弁慶が
気をつけねば磯野には鎌倉方の追っ手がまわっているかも
知れぬので、伊勢の三郎を物見に出し
静様には片岡経春をつけて
こっそり、禅尼様のもとまで送らせまする。
あとは物見の三郎がもどるまで、しばらく息を入れて
これから先の思案をしましょうぞ。
といい、残る七人が境内の七つの石に腰をおろすことを
すすめたということや。



義経主従が、これから先の苦労を思いながら
刻を過した腰掛け石が、今も、大中のチャンチャン社に残る
義経の七つ石やそうな。




※本文と絵は大和高田の民話絵本より。
 高田の民話と伝承の郷、11ヶ所を訪ね歩いてきました。

1話づつご紹介いたします。